近代化産業遺産 総合リスト


 
建物紹介例
<写真がここに入ります。(下は例)> 現在の建物名称(昔の建物名称)
住所(移設の場合、旧所在地) 建築年代
構造/階層 設計者/施工者
文化財指定・顕彰(ある場合)/撮影日/所有状況/
使用状況(建造当時の用途)
建物説明をくどくどと。(文末に参考文献ナンバー)

長崎県長崎市(南山手地区)編

長崎市南山手レストハウス(清水邸)
長崎市南山手町 元治元年〜慶応元年(1865)頃
石造/平屋建 不詳/不詳
/06.2/長崎市/静態保存(住居)
 観光地の中心たるグラバー園からは裏手に属し、近年斜行エレベータと同時に整備公開されたことで脚光を浴びた施設です。グラバー園内で公開されている石造建物群と同じく、天草の下浦石が使用されているようで、大谷石と同じような色合いを持ちつつも現在まで遺る頑丈さを保っています。
 レストハウスとして使用されていますが、より有効な活用法を募集しているとのこと。今のままでも私はよいとは思うのですが、、、ここは難しいところですね。(28.現地パネル.)

大浦天主堂(同左)
長崎市南山手町 元治2年(1865)
木造/平屋建 フュレ神父・プチジャン神父
/小山秀之進
国宝/04.2/民間/教会(同左)
 教会として、さらに洋風建築として唯一国宝指定されている作品。その成立過程には多くの謎が秘められており、神父達と江戸禁教時代から生き残った隠れキリシタンたちとの出会いという、キリスト教会の画期的な出来事「信徒発見」の史実と併せて建物の神秘性をきわだてています。
 南山手の洋風建築群はグラバー邸を含めて、この教会を基準にしてコース立てていけば、効率よく巡ることができます。観光の際はまずは聖地巡礼、といった気持ちでここからどうぞ。(23.28.)

十六番館(同左)
長崎市南山手町
(長崎市東山手町)
明治初期以前
木造/平屋建 不詳/不詳
/04.2/長崎市/展示施設(住居)
 展示施設離れした建物のひとつ。もともとはアメリカ領事館に付属した宿泊施設であったそうですが、見た感じでは周りの洋館に似せたレストランかおみやげ屋にしか見えません。 何が悪いかというと、やはり看板でしょう。地下は歴史資料館と言うから驚きです。たとえ物販施設を持っているとはいえ、もう少し歴史的な趣を大事にして欲しいと考えるのは私だけですか?
 資料によっては長崎最古の洋館とも言われています。かつては東山手十六番地にあった建物であるとのこと。(28.)

杠葉病院本館(同左)
長崎市南山手町 明治中期
木造/2階建 不詳/不詳
/04.2/民間/病院?(住居)
 丘の上に大きな建物が見えます。この長崎ではそれほど珍しいことではありませんが、規模の点では他の作品群より少し目立つ格好になっています。
 決して観光のために公開されている施設ではありません。もしこれが神戸に在れば、既に観光事業化のための買収騒ぎがあっても不思議ではありません。それがないことが、長崎の良いところであり、しかし少し寂しいところではあります。医院として現在も営業されているのかどうか、よく分かりません。(28.)

杠葉病院別館(同左)
長崎市南山手町 明治中期
木造/2階建 不詳/不詳
/04.2/民間/病院?(住居)
 二棟の同一デザインを持つ建物。両方とも病院として用いられていますが、元々は住宅の目的で建てられたとのこと。竣工当初は、さぞかし派手さで目立っていたことでしょう。現在少し古びを帯びて、味のある外観を見せています。
 主要サッシ部分は変更されているものの、全体の構造に大きな破綻は見られず、2階部分の金具は当初からのものがそのまま使われているようです。当初庭であっただろう建物の前は、現在医院用駐車場。坂が急なため、ここに止める車はさぞかし大変だろうなと思います。(28.)

南山手地区街並み保存センター・南山手八番館(旧雨森医院)
長崎市南山手町 明治中期
木造/2階建 不詳/不詳
/04.2/長崎市?/展示施設(住居)
 長崎・南山手地区は東山手地区とともに重要伝統的建造物群地区に指定されています。その中でもこの建物は、街並みのインフォメーションセンターを兼ねた、貴重な生活展示施設となっています。
 一番印象的なのはこの外観で、三角ペディメントが飛び出た玄関部は、建物の印象をここに集中させます。建物構成の割には柱が華奢に見え、元々医院ではなかったのではないかと見受けられます。医院建築にありがちの重厚さよりも、か弱さを感じさせる、愛らしい建築物といえます。(28.)

町田邸(同左)
長崎市南山手町 明治中期
木造/2階建 不詳/不詳
/04.2/個人所有/住居(同左)
 個人宅として現在も使用されている作品。近代建築が集中している地区に共通することですが、個人所有の建物群、しかも木造建築が多く、現在も使用されています。鎧戸や玄関軒部分の様子を見ると、外観に関してはそれほど大きな改修は見られず、観光客に良質な景観を提供しています。
 欲を言えばきりがないことは重々承知です。それでも、数年に一回見学できるとか、、、自らの部屋の片付け具合を顧みると、無理ですね。(28.)

長崎市須加五々道美術館・南山手乙九番館(旧中村邸)
長崎市南山手町 明治中期
木造/2階建 不詳/不詳
/04.2/長崎市/展示施設(住居)
 長崎は坂の町、といわれていますが、写真を撮る際に非常に困ることがあります。それは建物の全景を撮すために、庭がない場合は広角レンズを使用するか、このように坂の下からとるほか無いことです。
 玄関に面したであろう部分にはバルコニーがありますが、これはこの地区の近代建築によくあるパターンです。見た目の問題も当然ありますが、ここでは南側の日光と安定した気温を確保する目的があったのでしょう。典型的な洋風建築といえます。(28.)

長崎市べっ甲工芸館(旧長崎税関下り松派出所)
長崎市松ケ枝町 明治31年(1898)
木造/平屋建 不詳/不詳
国指定重要文化財/04.2/長崎市/観光施設(行政施設)
 瓦葺きに漆喰壁、玄関部のアーチなど、まさに擬洋風建築の真骨頂たる風格を見せている作品。明治もこの時期くらいになると、本格粋な洋風建築の建造も当然可能になっていますが、あえて和のテイストにこだわったのかもしれません。残念ながらこの建物の設計者は定かではありません。
 近年改修が行われ、べっ甲細工の展示施設として再生されました。建物そのものの重要性とべっ甲細工の美しさが両方楽しめるという、お得な施設になっています。(28.)

宝製綱株式会社(旧ラムネ工場)
長崎市小曽根町 明治35年(1902)
煉瓦造/2階建 R.F.ウォーカー/不詳
/04.2/宝製綱/工場(同左)
 海岸通り、しかも車通りが激しい一帯に遺る工場建築。それ相応に改修が施されているようですが、まだまだ使用に堪えるようで、その姿には心強さを覚えます。
 もともとはウォーカー商会がラムネ工場として設立した工場で、なるほど、それならば住宅地に近接している理由も納得がいきます。現在はロープ工場に引き継がれ、工場建築のしての系譜をつづっています。(23.28.) 

旧香港上海銀行長崎支店(同左)
長崎市松ケ枝町 明治37年(1904)
煉瓦造/3階建 下田菊太郎/矢田鉄三
国指定重要文化財/04.2/長崎市/展示施設(銀行)
 長崎市に残る重要文化財建築の中で、一番迫力のある建物ではないでしょうか。三角ペディメントがこれでもかと全面に張り出し、バルコニー部分にあるオーダーは誇らしげです。設計者である下田菊太郎は大陸を中心に活躍した建築家で、なるほどだからこそこの狭苦しい坂の町で雄大な作品を造り得たのだと納得がいきます。
 現在展示施設としてかつての大陸航路の軌跡などが展示されています。この建物に実にふさわしい展示内容だと、感銘を受けました。これだけ中と外のギャップがない施設は珍しいです。(23.28.)

古賀野邸(不詳)
長崎市南山手町 明治期
木造/2階建 不詳/不詳
/04.2/民間/住居(同左)
 外から眺める隣の芝生、といった印象です。歴史的建造物に住む気持ちというものを、残念ながら私は経験したことはありませんが、この建物に関しては、もし街の中央部になかったら、最近周辺部に似せて造った建物と思ったかもしれません。それだけ現在在ってもおかしくない、洗練されたデザインの協調性をこの当時で持っていた建物だと感じます。
 玄関部を覗いては左右対称の建物だと思います。ただ、その中に神戸・北野町のような協調された美しさがあるか、意外性があるかについては、実際見てみないと分かりません。(28.)

旧城田邸(同左)
長崎市南山手町 明治後期
煉瓦造/3階建 不詳/不詳
/06.2/民間/放置(倉庫?)
 長崎の町を歩いているとビルの谷間に不意に現れる洋館。他のところだったらこの一件のみでまちづくり活動を行っても不思議でないのですが、長崎では放置状態です。もったいないとしか言いようがありません。
 もともとは工場施設あるいは倉庫として使用されていた建造物のようです。多少の改造が行われながら現在まで何とか受け継がれてきましたが、前面が更地になっている現在、その行く末は風前の灯火となっています。目立たないが故に、ひたすらに心配です。(28.)

長崎教区大司教館(同左)
長崎市南山手町 大正4年(1915)
煉瓦造/2階建(小屋裏部屋有) ド・ロ神父+鉄川与助/鉄川与助
/04.2/民間/宗教施設(同左)
 ド・ロ神父と鉄川与助の師弟関係がなせる技。大浦天主堂へと続く通りからは煉瓦壁が非常に印象的に映り、側面からは中国のコロニアル建築をにおわせる独特の空間を呈してくれます。
 長崎の教会建築に多大な貢献をしたド・ロ神父はこの工事のけががもとでこの世を去ることになり、この建物は神父の遺作といえます。一方の鉄川与助はこの後も教会建築を中心に活躍し、後に次々と文化財指定されることとなる、長崎五島の教会群を作りその名を残しています。(28.)


羅典神学校()
明治(19)
造/
/07.3//(同左)
 (a.)

マリア園(同左)
年(1)
不詳/不詳
/07.3//
(.)

波平小学校(旧)
明治年(18)
/建 不詳/不詳
/07.3//()
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