近代化産業遺産 総合リスト


 
建物紹介例
<写真がここに入ります。(下は例)> 現在の建物名称(昔の建物名称)
住所(移設の場合、旧所在地) 建築年代
構造/階層 設計者/施工者
文化財指定・顕彰(ある場合)/撮影日/所有状況/
使用状況(建造当時の用途)
建物説明。(文末に参考文献ナンバー)

長崎県長崎市(出島その他地区)編

旧小菅修船所(同左)
長崎市小菅町 明治元年(1868)
煉瓦+石造 不詳/不詳
国指定史跡/04.12/三菱重工業/静態保存(同左)
 日本最古にして、もっとも初期の形式を残したドッグ。船舶の引揚げレールの形状から、通称「ソロバン・ドッグ」という名称で知られています。付属屋のこんにゃく煉瓦と呼ばれる薄平たい煉瓦や、引き揚げ機械など、語り始めたら話題に事欠きません。
 産業考古学という学問を考える際、この施設が持つ重要性は実に偉大であり、想像もつかないほど神聖な空間といえます。日本産業革命発祥の地のひとつといえ、思わず拝んでしまいたくなるほど歴史の重厚さを感じる施設です。(28.)

唐人屋敷・福建会館(同左)
長崎市館内町 明治元年(1868)
煉瓦造/平屋建 不詳/不詳
市指定有形文化財/07.3/民間/余暇施設(同左)
 敷地がゆったりと作られていることから、階段に腰を下ろしたくなる公園のような雰囲気を持っています。こちらの建物、かつては辛亥革命を指揮した孫文も訪れたことがあるという、実に由緒正しき施設です。実はそのときの孫文の写真が集合写真で、階段に腰を下ろしていたものですから、ほら、やっぱりまねしたくなりますよね?
 建物は他の2棟の煉瓦造施設より大振りな寺院建築と言えるでしょう。付属棟は唐人屋敷周辺を紹介するビジターセンターとなっており、唐人屋敷近辺を散策する際はまずこちらを訪れることをお薦めいたします。(長崎・唐人屋敷公式サイト.)

本河内高部堰堤(同左)
長崎市本河内町 明治24年(1891)
土・煉瓦造 吉村長策/不詳
土木学会選奨土木遺産/07.3/長崎市/水道施設(同左)
 これぞまさしくアースダム、というべき土構造がはっきりと分かるアースダムです。日本で三番目に開設された近代水道設備の遺構であり、今なお現役の水道施設です。それまでに作られた函館・横浜の上水道は河川から取水する形式であったので、日本初のダム式上水道と言えるでしょう。
 西洋からもたらされたダム式水道設備が初めて導入された記念碑的施設であり、土木学会の選奨土木遺産はきわめて当然の結果と言えるでしょう。水道施設愛好者なら、一度は見に行きたい遺産です。(28.)

本河内高部配水池(同左)
長崎市本河内町 明治24年(1891)
煉瓦造地下式配水池 吉村長策/不詳
土木学会選奨土木遺産/07.3/長崎市/水道施設(同左)
 配水池とは、上水道を安定して供給するために水を一時的にためておくために作られた施設で、地下式の施設と地上式の施設に大分されます。高層マンションなどに見られるタンクも広義の配水池と言えるでしょう。
 近代につくられた配水池の多くは地下式で、水道施設を見る際に大きな特徴となっています。これは市民ののどを潤す水道の直接の供給元に対する安全性の確保や後に作られる配水タンクの構築技術が未発達であったことなどが原因としてあげられるでしょう。芝で覆われた配水池は、美観にも優れていると言えます。(28.)

富貴楼(千秋亭、富士亭)
長崎市上西山町 明治30年(1897)
木造/3階建 不詳/寺井某
国登録有形文化財/07.3/民間/商業施設(同左)
 傾斜地にたなびくように建てられた料亭。道路沿いに建てられているにもかかわらず、全体像を把握することは困難を極めますが、報告書に記載されている写真によると三階建ての大規模な作品であることが確認できます。
 建造年代に関しては、幕末期からの施設と明治30年銘の棟札、そして明治40年代に作られたと言われる施設とが混在しており、詳しいことをはっきり述べることは、困難と言うほかございません。大規模な敷地を持つ料亭建築は、どこもこのようなたこ足的増設を繰り返しているようで、正確な年代を判別することは難しいようです。
 図面を見ると文字通りの百畳間があり、まさに長崎の料亭代表格を担うだけの豪壮さを持っているようです。一度中を拝観したいものです。(59.)

下小川橋(同左)
長崎市片淵四丁目 明治36年(1903)
石造単アーチ橋 不詳/不詳
国登録有形文化財/07.3/長崎大学/交通施設(同左)
 長崎に多くある石橋の中でも、こちらの特徴は幅員が8メートルもあるという事です。やはり高等商業学校の玄関口として作られたことから、それなりの格式を必要としたのでしょうか。現在でも拡幅することなく、大学関係者の車が行き交います。
 この橋梁、なぜか文化財登録時の名称は、「長崎大学(旧長崎高等商業学校)拱橋」という無機質なものとなっています。せっかく名称があるのですから、そちらを優先すべきと思うのですが、、、どうなのでしょうか。(28.)

本河内低部堰堤(同左)
長崎市本河内町 明治36年(1903)
石張コンクリート造アースダム 吉村長策/不詳
/07.3/長崎市/水道施設(同左)
 本河内高部堰堤のキャパシティが一杯になった事から急遽造営された水道施設。時代の変化なのか、水道施設に対する周囲の理解度が増したのか、同じアースダムにもかかわらず、全面に石張加工されており、より堅牢に、またより優美に構築されています。
 同時期に作られた西山ダムとの比較を行うと、こちらの方がコンクリート造ダムとして古いと言うこと、また現在もなお現役のダムであることが挙げられるでしょう。堤頂部に施された串歯状の装飾(デンティル)などは、明治期の土木構造物ならではのものでしょう。(28.)

明治館(旧本田屋)
長崎市篭町 明治38年(1905)頃
煉瓦造/2階建 不詳/不詳
/07.3/民間/商業施設等(銀行)
 元々は美術貿易商の店舗として建てられ、戦後の一時期には西日本シティ銀行の支店として用いられたこともありました。現在は歓楽街の地域特性にあった形で雑居ビルとなっています。入居している業種はともかくとして、看板が乱立した姿は、少々見るに忍びないものがあります。
 玄関周りの意匠と2階部分煉瓦のギャップを始め、なかなかの偉容を誇っていることがわかるかと思います。歓楽街のただ中にありますが、観光地にも近いですから、、何とかなりませんかねえ?(28.)

桜馬場公民館(上長崎村役場)
長崎市桜馬場町一丁目 明治38年以降(1905)
木造/2階建 不詳/不詳
/08.11/長崎市/余暇施設(官公庁)
 他の地方都市なら小躍りして観光の拠点施設にしてしまいそうな、明治の官公庁建築です。しかしここは長崎、このくらいのレベルの洋館ならいくらでもある、と言いたげな状態で、公民館として利用されています。ぼろぼろではなく歴史的な雰囲気をとどめた改修がなされているのは、長崎ならではと言えるでしょう。
 この作品が面している道路はかつての長崎街道。宿場に面した役場建築というのは、全国でもそれほど遺っていないかもしれません。真偽のほどは分かりませんが、貴重な作品であることは間違いないでしょう。(59.)

唐人屋敷・天后堂(同左)
長崎市館内町 明治39年(1906)
煉瓦造/平屋建 不詳/不詳
市指定史跡/07.3/民間/宗教施設(同左)
 煉瓦で囲まれた門構えとこれまた煉瓦で造られた建物。小規模な作品ながら、囲まれた煉瓦の壁面がうまく構成されており、その造りよりも威厳を持って見学する人たちを迎えます。
 中華風で構成されている建物のため、煉瓦を使用しているにもかかわらず近代の雰囲気を見せていないところが、いかにもと言うべきか、不可思議と称するべきか。なるほど、長崎という町は和華蘭ところだと言えますね。唐人屋敷内に保存されている他の施設と比較すると、施設の景観効果の高さが分かるでしょう。(長崎・唐人屋敷公式サイト.)

長崎大学経済学部倉庫(長崎経済専門学校倉庫)
長崎市片淵四丁目 明治40年(1907)
煉瓦造/平屋建 不詳/不詳
国登録有形文化財/07.3/長崎大学/教育施設(同左)
 長崎大学片淵キャンパスの前身である、長崎経済専門学校の施設として現存する唯一の建物です。ちょうど2階部分に相当するところにもきっちり窓が設けられているものですから、見た目には煉瓦造/2階建と表記してしまいたいものですが、報告書によるとあくまで平屋建とのこと。
 長崎大学のこちらのキャンパスは比較的小規模なキャンパスではありますが、歴史的な建造物が入り口、中央部そして周辺部に近代につくられた施設が妙に印象的に配置されており、なかなか居心地の良い空間を構成しています。(28.)

二枝べっ甲店(同左)
長崎市浜町 明治45年(1912)
煉瓦造/3階建 山田七五郎/不詳
/04.2/民間/商業施設(同左)
 鎧戸から西部劇を思わせるスタイルを持った煉瓦造構造物。商店街の力強さと伝統をこの建物ひとつとってみてもよくわかるかと思います。が、アーケード内にあるため、その全貌を伺うことができず、何ともいたたまれない気持ちになってしまいます。
 多くの商店街のアーケードはその古さにかかわらず、2階の周辺部にかけられるため、この作品のような3階建て建築物は、景観の面で多大な損をすることが多いように感じます。若干の危惧をしていたところ、なんと相続問題から閉店・解体されたとのこと。日本の税制度に恨みを抱かずにいられません。(28.) 

浦上天主堂遺壁(同左)
長崎市松山町
(長崎市本尾町)
大正3年(1914)
戦後移築
煉瓦造保存壁面 鉄川与助/鉄川与助
/07.3/長崎市/静態保存(宗教施設)
 現存していれば、鉄川与助の最高傑作とも言われた浦上天主堂の遺構です。現地案内板によると、建物の回廊中部付近の腰壁と壁の一部がモニュメントとして移設されたもののようです。
 遺されている遺構の一部だけでもよく見てみると、石造の細かな装飾具合などみるべきところが多く、建物が健在であったときは、さぞ荘厳であったことだろう、などと考えます。この遺壁の他にも、市内の各所に浦上天主堂の遺物が分散して保存されており、当地の信仰の厚さを伺わせます。
 もと浦上天主堂にあったものを爆心地に近いこの場所に移設し、原爆被害のすさまじさを今に伝えています。つくづく戦争というもののむなしさ、悲しさ、怒りを覚えます。(長崎平和宣言サイト.)

唐人屋敷・観音堂(同左)
長崎市館内町 大正6年(1917)
煉瓦造/平屋建 不詳/不詳
市指定史跡/07.3/民間/宗教施設(同左)
 小規模な作品ながら、アーチ門の採用など近代的なところも見られる、おもしろい華洋折衷の遺産と言えます。内部はこってり観音堂、と言っても中国風の内装で構成されているので、日本の観音様とは大きく異なるのですが、それと外に出たときの幼稚園とのギャップというのは、実におかしく、おもしろいと言うしかありません。
 玄関部分に付けられている蟇股の意匠というのは、日本固有のもののようで、中国風の外観の中で、一つ日本にあることを強調するものとしてどどんと構えているようです。(長崎・唐人屋敷公式サイト.)

中川橋(同左)
長崎市中川二丁目 大正7年(1918)
石造単アーチ橋 不詳/不詳
/08.11/長崎市/交通施設(同左)
 長崎街道の一角にある石橋。キーストーンを設け角部に面取りした橋詰空間を設けているところは、洋風の技術系譜をしっかり受け継いでおりますが、欄干は17世紀から受け継がれた中華風のデザインを踏襲しており、さすが長崎と言えるおもしろい取り合わせと言えるでしょう。
 大正時代から拡幅されていないことから、現在の主要幹線からは外れてしまいましたが、当時と変わらず道路橋として使用されており、ここを車が亨様は何とも不思議な気持ちになってしまいます。これからも受け継がれて欲しい光景です。(28.)

瓊林会館(長崎経済専門学校研究館)
長崎市片淵四丁目 大正9年(1920)
煉瓦造/2階建 不詳/不詳
国登録有形文化財/07.3/長崎大学/事務施設(教育施設)
 長崎大学片淵キャンパスの中でも代表的な建物。当時から研究施設の用途で作られたもので建設には地元代議士による寄付がなされました。
 原爆による被害も比較的軽微であったため、他の建物が壊された中でも倉庫とともに現在まで遺され、また同窓会施設として現在も使用され続けています。玄関脇に停められている自動車と比較すると、見た目よりもかなり大振りな建物であることがよく分かるかと思います。(28.)

長崎県庁第三別館(旧長崎警察署)
長崎市江戸町 大正12年(1923)
鉄筋コンクリート造/3階建
(当初2階建、地下1階)
不詳/不詳
/04.2/長崎県/事務施設(同左)
 県庁の一角に現存する施設で、ほかの建物と同様に原爆の被害を受けたものの、大きな損傷を免れ現在に遺っています。現在の県庁とは正反対に向けられた施設のため、知名度はそれほどないように思われます。
 角地に玄関をおいた、左右対称系の建築プランを持っており、警察署に必要な威厳は十分あったことでしょう。後年の増築によりできた3階部分は、厄介者の荷物のようにも見えます。(28.)

長崎銀行本店(長崎無尽本店)
長崎市栄町 大正13年(1924)
鉄筋コンクリート造/3階建 末広設計事務所/不詳
/05.9/長崎銀行/金融機関(同左)
 眼鏡橋のすぐ近くにある銀行本店。その存在は知っていましたが、中心部から少しはずれた位置にあるからか、写真に撮るまで時間がかかりました。角地を活かした象徴性の取り方は、金融機関ならずともよく行われる手法で、銀行という自己主張は少し控えめな建物だと思います。
 外壁部分は大規模な改修が行われ、当面の心配はないように思えますが、現在銀行自体は福岡県の銀行の子会社化となっており、経営状態次第では今後の心配ももたれる建物と言えます。(a.28.)

植木質店(同左)
長崎市館内町 大正期?
木造/2階建 不詳/不詳
/07.3/民間/商業施設(不詳)
 唐人屋敷のある区画に位置しており、そうなると中国人社会との関連はあるのか、また設計者や施工者などの関連性は、等といろいろ想像したくなるところもあるのですが、1階部分を見る限りは完全な和風建築の流れであり、唐人屋敷との関連性は見て取ることが出来ません。
 2階部分が土蔵作りの様な作られ方をしており、これは質屋という機能から取られたデザインではないでしょうか。鎧戸を閉めるとなかなか堅牢な姿を見ることが出来るかな、と思います。

岩崎倶楽部(不詳)
長崎市片淵二丁目 昭和2年(1927)
木造/2階建 不詳/不詳
/07.3/民間/住居(同左)
 瓦屋根だけを見ると和風のスタイル、壁面を見るとやはり土蔵造で和風スタイル。しかしたたずまいはどう見ても和洋混交の近代式です。なまじ大振りな建物なだけに、近くを通るとどうしても看過できません。
 外観の洋風部分はそれほど多くないのですが、たとえて挙げるならば庭に面した2階のガラス窓が挙げられるでしょう。しかしそれですら戸袋部分は和風の意匠が用いられており、やたら不思議な建物だと言えます。(59.)

料亭一力(同左)
長崎市諏訪町 昭和6年(1931)
木造/3階建 徳永末五郎(大工)
/07.3/民間/商業施設(同左)
 寺町に面した大きな料亭。大きく分けてこの道路側に面した昭和6年の西側旧館と奥に設けられている大正9年築の東側旧館とが、当サイト的に価値のある構造と言えるでしょう。
 こちら写真に掲載されている西側旧館には、広さ49畳にも及ぶ大広間があり、往時栄えていた長崎花柳界の華やかさを建物の規模から見て取ることが出来ます。これだけ大きな建物ですから、会場に食事を運ぶ際には、荷物運搬用のエレベータ施設が使用されていたようです。和風ながらも、近代の技術がちりばめられている施設と言えます。(59.)

鎮西橋(同左)
長崎市伊勢町 昭和9年(1934)
鉄筋コンクリート造アーチ橋 不詳/不詳
/04.12/長崎市/道路橋(同左)
 路面電車も通る大通りに架かった橋。幅の割にはスパンが長くなく、周辺が立て込んでいるため、あまり目立たない状態となっていますが、石橋の町・長崎の面目を躍如すべき意匠には感心させられます。和洋混淆のデザイン性は石橋のそれですが、書いてあるとおりこれは鉄筋コンクリート造の橋梁です。
 周辺部は新大工町の商店街があり、中心部とは違ったもうひとつの繁華街の姿を持っています。どことなく下町の雰囲気を持っており、住むには心地よい印象を持ちました。(12.28.)

戸町隧道(同左)
長崎市 昭和8年(1924)
道路トンネル 不詳/飛島組(大阪)
/04.12/長崎県/トンネル(同左)
 県道野母崎線の輸送力増強のため、1年2ヶ月の工期を経て竣工したトンネル。さすがに竣工が戦前期と言うこともあってか、ポータルにはそれ相応の装飾が施されているわけですが、歩道の目線より高い位置に灯籠のようないかにも和風の補助燈があるのは、帝冠式建築のような国威発揚の意識もあるのかもしれません。
 このトンネルの間近には、日本最初の近代式ドックである小菅修船場があります。小菅を見る際には、このトンネルにも注目が必要だと思います。(28.)

山口酢醸造元(同左)
長崎市新大工町 昭和9年(1934)
木造/2階建 佐藤勘三/不詳
/04.12/民間/醸造施設(同左)
 新大工町の、小さいながらも活気のある商店街の一角にある建物。窓の周囲には洋風の意匠が遺っており、それと黒漆喰壁とのギャップが、おもしろい調和を演出しています。年代こそ下れど、これは立派な擬洋風建築のたぐいに数えてよいかと思います。
 長崎市街のおもしろいところは、地形に沿って小規模な商店街が散在し、平地に一極集中していない部分だと思います。そしてそのような場所には必ずといって良いほど、原爆にも負けずに遺ったすばらしい建物に出会うことができます。(28.59.)


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