近代化産業遺産 総合リスト


 
建物紹介例
<写真がここに入ります。(下は例)> 現在の建物名称(昔の建物名称)
住所(移設の場合、旧所在地) 建築年代
構造/階層 設計者/施工者
文化財指定・顕彰(ある場合)/撮影日/所有状況/
使用状況(建造当時の用途)
建物説明をくどくどと。(文末に参考文献ナンバー)

福岡県朝倉郡東峰村編

旧伊藤合名会社宝珠山炭坑第一坑坑口(同左)
東峰村大字福井 大正5年(1916)
石造ポータル坑口 不詳/不詳
/05.10/東峰村/静態保存(坑口)
 こんなに見学しやすい炭鉱坑口はなかなかありません。坑口というものは、概して民家から離れた奥地か、「残骸」というパターンが殆どですが、これは交流施設からすぐの所に忠霊塔が立っているため、何となく見当がつけられます。少し歩けば、この産業遺構的雰囲気。坑口の塞がれ方も美観に配慮しているようで、まさに「隠れた名所」でしょう。現在遊歩道整備のため、一時的に近寄ることが出来ません。
 銘板には宝珠山炭砿と書かれていますが、その下にHOSHUYAMA COALMINEとローマ字が書かれています。この気負い方が、まさに大正レトロ。必見の土木遺産です。(現地案内板.聞き取り.) 

山村文化交流の郷・いぶき館(宝珠山炭坑クラブ→ほうしゅ山荘)
東峰村大字福井 昭和8年(1933)移設
木造/2階建 不詳/不詳
/05.10/東峰村/展示施設(余暇施設)
 外観を一見しての感想は、古い建物とは思えないと言うこと。建物自体の特長は改修含め内部に生かされているのですが、いかんせん外観がスッキリとしすぎており、復元じゃないの? と疑われても仕方ないかな、と思います。
 炭鉱の倶楽部建築は、単に砿員の福利厚生施設という用途だけでなく、外来者の宿泊施設としての役割をも担っていました。この建物が炭鉱閉山後飲食宿泊施設として利用されたのも極めて当然の話です。出来るなら、今でも希望者には宿泊OKとか、そう言った趣向も欲しいところです。(宝珠山村ホームページ.) 

旧宝珠山郵便局(同左)
東峰村大字宝珠山 昭和初期
木造/2階建 不詳/不詳
/05.2/不明/不明(行政機関?)
 造りから考えると、どうも消防署か警察署と考えることが妥当と考えていましたが、地元の情報により郵便局であるとのこと。人口三千人にも満たない(合併済)村で、なぜにこのような建物があるかと言えば、やはり炭鉱があったことが大きく影響しているのでしょう。活用を模索しているようですが、老朽化が激しいため、難しいそうです。
 宝珠山村は最盛期六千人を超える人たちがひしめき合って暮らしていました。往時の隆盛を今に伝えながら、静かに朽ちていっているように見えます。こんな建物を見ると、少し淋しい気持ちになります。(聞き取り.)

昭和倶楽部(宝珠山村役場)
東峰村大字宝珠山 昭和12年(1937)
木造/2階建 不詳/不詳
/05.2/東峰村/文化施設(行政施設)
 古い建物と言うことは、見た目からある程度の判断は出来ましたが、村役場だとは思いませんでした。竣工時は車寄と鐘楼?があったようで、それらを加えると、なかなかの立派な建物だったと想像できます。道路拡幅で車寄が撤去されたと思われます。
 現在は高倉健公認の資料館として使用されているようです。観光の成否はともかくとして、施設の再利用方法としては適切なものと言えるでしょう。炭鉱創業期の建物ということもあり、造りはしっかりしているようで、まだまだ活躍が期待できます。(宝珠山村ホームページ.)

宝珠山木造建物(不詳)
東峰村大字宝珠山 昭和10年代
木造/2階建 不詳/不詳
/05.2/民間/不明(商業施設?)
 類似建築が北九州市若松の船用品店などにも見られます。昭和期の典型的な商業施設と考えて大きな間違いはないでしょう。現在は営業されておらず、今後の動向が心配です。
 大正炭鉱の操業や柳原白蓮との離婚騒動で有名な伊藤伝右衛門がこの地に炭鉱を開いたのは大正時代。それから昭和30年代に至るまで、宝珠山は炭鉱のお膝元として栄えてきました。閉山後産業を炭鉱一手に頼ってきた村は一挙に沈滞。それが良質な近代建築を現代まで遺すという、皮肉な結果となりました。この建物はじめ、多くの建物群は、この隆盛と沈滞のギャップがあってこそ遺されてきたのだといえます。

JR九州金剛野橋梁(同左)
東峰村大字宝珠山 昭和戦中期
コンクリート造アーチ橋 不詳/不詳
/06.6/JR九州/交通設備(同左)
 九州の一時代を飾った鉄筋コンクリート橋梁のひとつ。水田に無機質なむき出しのコンクリートが意外と映えており、これはこれでなかなか見応えがあります。日田彦山線のこれら橋梁は鉄道営業開始こそ戦後期の昭和31年ではありますが、その設置工事は戦時中行われていると推定され、実に簡素ながら美しい造形美を見る人に伝えています。
 夕方頃にはライトアップが行われているとのこと。近くには温泉付きの宿泊施設もあるので、一度見学に行ってみてはいかがでしょうか。(宝珠山村パンフレット.)

JR九州奈良尾橋梁(同左)
東峰村大字宝珠山 昭和戦中期
コンクリート造アーチ橋 不詳/不詳
/06.6/JR九州/交通設備(同左)
 周辺にある橋梁群の中ではもっとも大きなものだとのこと。これら橋梁群は戦時中鉄道省を中心にして石炭産業を中心とした輸送増強政策のもと、工事が続けられてきた区間ですが、同様のスタイルを持った橋梁には旧国鉄宮原線(廃線)や松浦鉄道の橋梁群があります。
 紹介した各路線の橋梁群は竹筋コンクリートで作られているとの噂があるもので、あるいは日田彦山線にも、と考えてしまうのは私だけでしょうか。戦時中の資材困難から生まれた幻の建築材「竹筋コンクリート」には、失われた技術の系譜を感じさせ、研究者的感性に訴えかける何かがあります。(宝珠山村パンフレット.)

JR九州松尾橋梁(同左)
東峰村大字宝珠山 昭和戦中期
コンクリート造アーチ橋 不詳/不詳
/06.6/JR九州/交通設備(同左)
 筑前岩屋−大行司間のコンクリート橋梁の中ではもっとも幅が狭いものです。近くで見てみると、こんなにアーチが華奢で大丈夫なのか、大雨に耐えられるのだろうかなどと色々と考えることがありますが、現在まで多くの風水害に耐えながらも矍鑠とした姿を維持しています。
 橋梁というものは実に不思議なもので、乗っている間ははてそうかな、と気付くかどうかといったものですが、傍らを通る道路から眺めると実に重要な景観要素となっています。土木デザインというものは、生活の潤いにとって意外と重要であることが、利用する立場から少し離れると分かってくるという一例です。(宝珠山村パンフレット.)


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