近代化産業遺産 総合リスト


 
建物紹介例
<写真がここに入ります。(下は例)> 現在の建物名称(昔の建物名称)
住所(移設の場合、旧所在地) 建築年代
構造/階層 設計者/施工者
文化財指定・顕彰(ある場合)/撮影日/所有状況/
使用状況(建造当時の用途)
建物説明。(文末に参考文献ナンバー)

北九州市若松区(浜町地区他)編

若松築港岸壁(同左)
若松区浜町一丁目など 明治25年(1892)
石造岸壁 不詳/若松築港
/03.9/若築建設/岸壁(同左)
 若松南海岸の岸壁はどこも石で造られており、レトロな雰囲気に彩りを添えていますが、この一角だけは特に年季を感じさせます。それもその筈、若松地区が近代港湾として最初に整備された地区の岸壁で、同地区では最古のものです。
 土木学会編集による「日本近代土木遺産」の中では若松地区で唯一紹介されている構造物で、その等級はBクラス。南海岸へと続くそのたたずまいは実に愛すべき地域財産と言えるでしょう。(12.)

19633号蒸気機関車(同左)
若松区久岐の浜 大正6年(1917)
9600テンダ型機関車 不詳/川崎造船所
/03.10/JR九州?/静態保存(機関車)
 駅前の新興住宅地、久岐の浜シーサイド市営住宅の広場に唐突におかれているこの車輌。この区画の由来を知る上では欠かせないモニュメントとして、新興住宅街の露天に晒されています。
 もともとこの住宅地は若松機関区だったところで、操業時は広大なヤードの中に多くの機関車や貨車が出番を待ちかまえていました。
 やがて地域の主要産業であった石炭の需要も衰え、輸送拠点としての使命と共に機関区も消滅。現在は新興住宅街となっている訳です。この機関車は往時の栄光を語るべく、今日も佇んでいます。(b.)

日華油脂若松工場煙突(日本油脂工業若松工場)
若松区北浜一丁目 大正6年(1917)頃
鉄皮式煙突 不詳/不詳
/06.9/日華油脂/工場施設(同左)
 大空にそびえる煙突というものは、実に雄々しい気持ちになってしまうものです。工場の従業員によるとこの施設は工場の創業当時からあるとの話です。証言では「明治からある」と言われていますが、工場自体は大正期の竣工施設ですので、この証言には全幅の信用を置きづらいところがあります。とはいえ、無くなってしまうとこれ以上調べることが難しく、何とももどかしいところです。
 最上部の縁の部分がきらきら光っています。後年安全上の観点から上部が一部カットされたことを示す痕跡ですが、カットされたとはいえその量感は十分保っており、工場内の大きな魅力のひとつとなっていました。(41.投稿情報.)

日華油脂若松工場倉庫棟(同左)
若松区北浜一丁目 大正12年(1923)
煉瓦造/平屋建 不詳/不詳
2011年解体/06.9/日華油脂/工場施設(同左)
 北九州には製鐵所の副産物である鉱滓煉瓦造の建物が数多くありますが、ここまで幅広く壁が広がっている空間はなかなかありません。この壁だけを見に行くことも、煉瓦マニアなら是非お勧めしたいところでしたが、、まさか事務所より早く解体撤去されるとは。
 古くからある油脂工場であることを示すとともに、食物倉庫の通気には、鉄筋コンクリート施設よりも煉瓦材のような通気性に富んだものの方が適しているのかも、と思わせる作品でもあります。とはいえ、煉瓦造の施設は現在の日本で積極的に作られることはもうありません。そういった意味でこの施設は非常に貴重でした。(41.)

小野田邸(同左?)
若松区山手町 大正13年(1924)
木造スレート葺/2階建 不詳/不詳
/04.1/北九州市/住居(同左)
 町の中心地からは少し離れた場所、かつては炭鉱主の住居も隣接していた高級感漂う地区に建物はあります。窓回りや外装の一部はかなり改装を行っているようですが、瀟洒な雰囲気を今も香らせています。
 外壁は鉱滓煉瓦、二階外壁上部にはハーフティンバー的意匠も見られます。屋根回りには門司三井倶楽部との類似性も感じさせる、魅力満載の近代建築と言えます。個人的には由来を詳しく知りたいところです。(0.)

若松労働会館(旧福岡県連歌町病院)
若松区浜町二丁目 昭和3年(1928)頃
木造/2階建 不詳/不詳
2015年末解体/03.9/北九州市/事務施設(医療機関)
 商店街の突き当たりを住宅地方面に歩くと見えてくる建物です。成る程表通りにも面していないため、高度成長期の道路拡幅による取り壊しに遭う事もなく、21世紀もしばらくはそのたたずまいを保っていました。
 掛かっている看板には「若松地区労組協議会」と書かれていましたが、地元の方々の中では労働会館という名で親しまれていたようです。空き家状態が長く続き、あえなく解体。残念です。(「若松今昔ものがたり」.84.)

旧若松港銭収入所見張所(同左)
若松区浜町一丁目 昭和6年(1931)
コンクリート造/平屋建 若松築港・友田/不詳
/03.10/若築建設か/用途不明(見張所)
 わかちく史料館(若築建設本店内)の前にある建造物です。今でこそいったい何に使われたものなのかさっぱり分からないような造りですが、文献によると戦前まで存在した港湾入港料徴収のための見張り所だそうです。最近、建物の説明版が取り付けられた結果、知名度が急激に上がりました。これも『北九州の近代化遺産』効果でしょうか。
 書物によると、ここから不法出入港しようとする船を見つけると、ボートで追跡を行ったそうです。今で言うと、駐車場の監視人の様なものなのでしょうか。(『七十年史若松築港株式会社』.建物図面.)

八幡製鉄集団住宅群・洞岡村(同左)
若松区宮丸一丁目 昭和6年(1931)
木造/平屋建 八幡製鉄/八幡製鉄
/04.3/個人所有(払い下げ)/住宅(同左)
 まだ人々の生活が車主体でなかった頃の理想的住環境を考えた社宅群。製鉄所住宅史の中には記載されていないため近年までその存在がはっきりせず、西日本工業大学の研究により(都市学会的に)全国に紹介されることとなりました。
 幹線からは1メートルに満たない路地を渡り、各住居へ連絡しています。都市計画の見地からみても、昭和初期の計画的住居設計のひとつとして現在にその外観が残っているという点で実に重要なものではないかと思います。いずれ、どの建築ガイドブックにも紹介されることでしょう。それくらい貴重な例なのです。(報告書.)

旧飯野海運事務所(同左)
若松区浜町一丁目6−23 昭和初期か
鉄筋コンクリート造/2階建 不詳/不詳
/03.9/民間/住居(事務施設)
 かつての海運会社の事務所で、位置的には神社や港に近く、竣工当初は一等地に建てられた施設であったことが想像できます。かつての喧噪が失われ、宅地化が進んだ現在2階部分が間貸しの施設、1階部分はかつて事務所が入っていたのですが、現在は再活用されているようです。
 結構がっしりとした建物なので汎用性は高いかと思います。リノベーションの上どのような活用が行われているのか、是非とも伺わねばと思う反面、なかなか時間もとれず、、、、使ってても使わなくても気になる建物と言えます。(41.)

旧料亭丸金(同左)
若松区浜町一丁目 昭和初期?
木造/一部2階建 不詳/不詳
/14.11/民間/住居施設(商業施設)
 若松でも比較的北側にある旧料亭建築。埋立地エリアで料亭建築がまさか遺っているとは、実際に話を伺うまで信じづらかったのですが、建物を見ると確かにこれは料亭。ある程度キャリアを積んで見方を知ってしまった側として疑うのはおかしいというものです(笑)。
 住宅として使用されている限り、何かに使うと言うことは難しいと思います。ただ、昼間限定のカフェなどには使いやすそうな位置関係だとは思います。(b.)

日華油脂若松工場事務所(同左)
若松区北浜一丁目 昭和16年(1941)
無筋コンクリート造/2階建 不詳/不詳
/06.9/日華油脂/事務施設(同左)
 車寄部分の白さが建物全体の印象を大きく変えてしまっています。よく言えば垢抜けている、と言えますが、どちらかというとアンバランスな印象を持ってしまいます。車寄を除いては時代特性をよく表していると思います。
 海際工場の宿命だったのでしょうか、さびやすい鉄材を採用せずに無筋コンクリートで作られているとのこと。その弊害から現在外壁が非常にもろい状態になっています。いつ解体されても不思議ではない、日本の技術進歩の一里塚的施設です。(41.)

火野葦平旧居「河伯洞」(旧玉井金五郎邸)
若松区白山一丁目 昭和16年(1941)
木造/平屋建 不詳/不詳
市指定史跡/03.10/北九州市/展示施設(住宅)
 若松の石炭仲仕頭領の一人で、議員まで務めた玉井金五郎の個人宅ですが、むしろ芥川賞作家火野葦平の住まいといった方が通りがよいでしょう。内部は実に贅を凝らした造りとなっており、石炭産業に従事した人々のステータスの高さをうかがい知ることが出来ます。
 火野葦平はこの建物の2階で執筆活動を行っており、また氏が自殺を遂げた場所もその2階です。故人の功績は文学という媒体を通じて今を生きる私達に繋がっています。(河伯洞パンフレット.)

軍艦防波堤(旧日本海軍駆逐艦「柳」)
若松区響町一丁目 昭和23年(←大正6年建造)
駆逐艦「桃」型(甲板下のみ残存) 不詳/佐世保工廠
/03.9/北九州市/静態保存(軍艦→防波堤)
 響灘に浮かぶ約2000ヘクタールの人工島の片隅、市の港湾岸壁の隅に隠れるかのように艦は横たわっています。近年補修工事が行われ、それまで荒れるに任されていた外壁も一応の保護が為されました。甲板上部の構造物が取り払われているため、今ひとつ物足りない感じではありますが、艦艇の大きさを実感し、その流転の歴史に思いを馳せてみるのも一興でしょう。
 同時期に防波堤となって現在地中に沈んでいる駆逐艦「冬月」「涼月」は戦艦大和の特攻に護衛艦として参加、大破したものの帰還したものです。(現地案内板.抹茶の個人ページ.)

セム1000号貨車(同左)
若松区白山一丁目 昭和期?
15t積み石炭車 不詳/不詳
/03.10/JR九州?/静態保存(貨車)
 若松の歴史を語る上では欠かせない石炭を運んでいた15t積みの貨車で、旧国鉄若松工場創立80周年を記念して保存されたものです。
 しかし、その若松工場も昭和60年に閉鎖され、現在は若松駅の脇に隠れるようにして放置されており、知る人も少ない状態です。その姿はまるでこの車輌の存在自体を否定しているかのようです。何とか上手く多くの人に見られるよう、工夫ができないものかと考え込んでしまいます。(b.)


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