近代化産業遺産 総合リスト


 
建物紹介例
<写真1がここに入ります。(下は例)>
八幡丸物百貨店
現在の建物名称(昔の建物名称)
住所(移設の場合、旧所在地) 建築年代
構造・階層 設計者/施工者
文化財指定・顕彰(ある場合)/撮影日/所有状況/
使用状況(建造当時の用途)
建物説明。(文末に参考文献ナンバー)

北九州市八幡東区(八幡地区)編

旧九州鉄道茶屋町橋梁(同左)
八幡東区茶屋町 明治24年(1891)
煉瓦造アーチ橋 不詳/九州鉄道
市指定有形文化財/03.3/北九州市/静態保存(鉄道橋)
 市松模様に浮かび上がったアーチ部分の煉瓦巻きに魅了されます。惜しむらくは、ばさりと切り取られた橋の両端部分。何とも殺風景な状態のまま保存されています。そういった視線で見ると手前の道路橋の扱われ方も気になります。
 しかし煉瓦の大きなアーチには一見の価値があります。せっかくの指定文化財なのですから、市による周辺域の修景を期待したいところです。 (4.6.12.出口隆氏博士論文)

旧九州鉄道尾倉橋梁(同左)
八幡東区尾倉一丁目 明治24年(1891)
煉瓦造アーチ橋 不詳/九州鉄道
/03.3/民間・市道/道路橋・民家敷地(鉄道橋)
 上の橋とこの橋との大きな違いはその現在の用途といって良いでしょう。上の茶屋町橋梁は文化財として静態保存されていますが、この橋は完全な現役です。もちろん鉄道橋としてではなく、道路橋なのですが、それとは別になんと民家の敷地となっているのです。
 左写真をご覧下さい。橋の上には見事に民家が建っています。橋の幅が広いが故になせるわざと言うべきでしょうか。明治が生み出した奇観であることは間違いないでしょう。(12.41.出口隆氏博士論文.)

新日本製鐵高見倶楽部(製鐵所外国人官舎)
八幡東区高見一丁目3−3
(製鐵所敷地・高見山?)
明治30年代?、明治40年移設、
昭和3年改築
木造/平屋建 製鐵所直営/製鐵所直営
/01.12/新日本製鐵/余暇施設(外国人宿舎)
 この建物が現在の姿に至るまで、いくつかの経路を辿っています。もとは製鐵所建設のためのドイツ人技師宿舎でした。それが製鐵所勤労者用の倶楽部として、高見に移されたのは明治40年。昭和3年には大規模な改築を経て現在に至っています。
 倶楽部周辺にはかつては製鐵所幹部住宅が建ち並び、その古めかしいたたずまいは「ロンドン長屋」とも称されましたが、今は取り壊されその姿を留めていません。(8.13.)

旧製鐵所初代本事務所(同左)
八幡東区大字尾倉 明治32年(1899)
煉瓦造/2階建 山口半六か?/製鐵所直営
世界文化遺産/04.7/新日本製鐵/静態保存(事務施設)
 JR鹿児島本線から僅かに顔を覗かせる煉瓦造施設。工場構内にあって、日本の産業を支え、急激な近代化を成し遂げた証拠のひとつとして、その価値は美的価値だけにとどまりません。近年ではツアーの形で一部公開されています。
 主な書籍を見るとこぢんまりとした印象があるかもしれませんが、周囲に比較できるような施設がないからで、軒高は10mを超えるかなり大きな建造物です。外壁は一度修復を受けて現在でもその美しさはなおとどめられ、このたび世界文化遺産に登録されました。(0.4.5.8.)

新日本製鐵八幡製鐵所史料室(製鐵所鍛冶工場)
八幡東区大字尾倉 明治33年(1900)
煉瓦・鉄骨造/2階建 GHH.(ドイツ)/製鐵所直営
世界文化遺産/04.7/新日本製鐵/事務施設(同左)
 製鉄所開業当初この建物の周辺は高見山の山腹にあり、ちょうど外国人宿舎(一部移転の上、現在高見倶楽部)が位置していました。製鉄所第一次拡張の際、山は削り取られて現在ある建物が造られたのでは、と想定されています。
 鉱滓煉瓦で造られ床面はタイル張り。これは埃が巻き起こらないための処置と想定でき、試験室のような用途であった施設と推定されています。史料室の名にふさわしく、中にはもはや拝めないかと思われたすばらしい備品があります。機会があれば是非一般公開してもらいたい施設です。(八幡製鉄所80年史.41.)

旧製鐵所修繕工場(同左)
八幡東区大字尾倉 明治33年(1900)
煉瓦・鉄骨造/平屋建 GHH.(ドイツ)/製鐵所直営
世界文化遺産/04.7/新日本製鐵/工場(同左)
 日本最初の本格的鉄骨造構造物であり、製鉄所を支えた屋台骨的建物。一時期大規模な歴史的構造物を保管するため倉庫として用いられていましたが、現在は再び現役施設として利用されています。
 中にはいると丸屋根の天井がすんと広がり、横に長く取られた広々とした空間は質の良い教会のそれにも似ています。越屋根と織りなす二重の曲線は実に芸術的で、艶っぽささえ感じてしまいます。建築を愛する人は是非一度訪れて欲しい、すばらしい作品ですが、今のところ一般公開されていません。(4.5.41.)

新日本製鐵八幡製鐵所条鋼工場(同左)
八幡東区大字尾倉 明治34年(1901)
煉瓦・鉄骨造/2階建 GHH社(ドイツ)/製鐵所直営
/04.7/新日本製鐵/工場(同左)
 スペースワールド駅から直近の工場であり、製鉄所最初期の工場施設でもあります。SINCE1901というロゴが実に誇らしく見える、外見からは容易に推定できないほどの貫禄を持つ作品です。
 2001年に開催された北九州博覧祭の時には一般見学コースが設けられていましたが、現在は特殊な条件を除いて非公開となっています。伝統を持ち最先端の工場。なんとすばらしい先見の明があったのでしょう。そのたたずまいがたとえ新しいものであったとしても、私たち日本人が敬意を持つべき施設であると私は考えています。(4.)

旧製鐵所西田岸壁(同左)
八幡東区大字尾倉 明治39年(1906)
鉄筋コンクリート造岸壁 沼田尚徳/製鐵所直営
/09.2/新日本製鐵/静態保存(港湾施設)
 一見する限りでは、ああ、岸壁だな、という印象なのですが、これが明治期の鉄筋コンクリート構造となると話は一挙に異なります。
 日本で最初に作られた鉄筋コンクリート造アーチ橋は1903年に竣工していますから、それと数年も変わらない時期の施設。さらに本格的な鉄筋コンクリート造港湾設備である小樽港北防波堤より早期の竣工という、外観からは分からない技術の先端を行った施設であることが分かりました。
 外観壁面の一部に浮き輪がデザインとして彫り込まれているのは、なかなか味があります。(新日本製鐵資料.)

旧製鐵所外輪工場(同左)
八幡東区大字尾倉 明治39年(1906)
鉄骨造/平屋建 Jackson社(英)/製鐵所直営
/04.7/新日本製鐵/工場(同左)
 製鉄所初期の鉄骨造建造物と比べると鉄骨が細いように感じます。これは鉄骨造構造物に対して日本人が作り方を理解してきた結果であるとも考えられますし、構造材にそれほどの荷重を必要としない屋根であるとも考えられます。
 設計こそアメリカの会社が携わっているものの、この頃には原材料にも自社製品が用いられているようで、建造に際し日本人技術者の関与が認められている施設です。ここから日本の工場設計が始まったのだと思います。(4.)

安田工業八幡工場(旧安田製釘場)
八幡東区枝光二丁目7−7 大正元年(1912)
鉱滓煉瓦造/平屋建 辰野葛西事務所/不詳
/03.7/安田工業/工場(同左)
 工場のベールに隠された芸術と言いましょうか。そのたたずまいは外国にいる気分にさせられます。日本建築界の重鎮と言うべき辰野金吾がなぜ工場の設計に携わったのか、それはこの建物を造らせた安田善次郎が製釘業に深い情熱を傾けたためで、そのためか、建物のひとつひとつに何とも言えない気品と落ち着きを感じます。
近年、安全面からか外壁煉瓦部分の多くがトタン板に変わりつつあり、この工場らしからぬ重厚な姿もいつまで見られるか、分かりません。(5.8.10.安田工業HP)

安田工業八幡工場倉庫棟(旧安田製釘場倉庫)
八幡東区枝光二丁目7−7 大正元年(1912)
鉱滓煉瓦造/平屋建 辰野葛西事務所/不詳
2013年頃解体/09.10/安田工業/工場(同左)
 敷地内に鬱蒼とした草むらがあり、そこを歩いてみると隠れているように遺されている作品。鉱滓煉瓦造の平屋建て倉庫建築で、現在も資材が保管されています。内部はキングポストトラスの洋小屋組で、なるほど辰野の手による建物と考えて良いかと思います。
 創業当初の全体図を写した硝子乾板には、こちらの倉庫らしき建物も撮されており、創業当時からの施設と考えて間違いなかったのですが、、、あっという間に取り壊されてしまいました。(聞き取り.)

北九州市旧百三十銀行ギャラリー(旧百三十銀行八幡支店)
八幡東区西本町一丁目
(八幡東区春の町?)
大正4年(1915)
鉄筋コンクリート造/2階建 辰野葛西事務所/阿部組
市指定有形文化財・市建築文化賞/01.2/北九州市/ギャラリー(銀行建築)
 赤煉瓦と石の装飾、小さいながらもまさに辰野式、、、と言いたいところですが、これは全くの表面上の飾りであり、実は鉄筋コンクリート造の建物です。もともとは別の場所にあったものを八幡駅の移転によって引き屋されたという、波乱に満ちた経歴を歩んでいます。
 長い間倉庫などの用途で放置されていましたが、近年市によって改修工事が行われ、貸ギャラリーとして一般開放されています。(5.8.)

徳養寺(同左)
八幡東区山王一丁目 大正4年(1915)
鉱滓煉瓦造/一部2階建 上田敬吉/不詳
2004年解体/01.3/民間所有/寺院(同左)
 たたずまいだけを見れば殆どの方が教会と判断するのではないでしょうか。これでお寺だと信じる方が難しいというものです。両端の塔には鐘突き堂(当然釣鐘です)、縦線を強調した玄関部には教会特有の威圧感が感じられます。が、これはれっきとした仏教・浄土真宗の寺院です。
 この写真にある本堂は既に解体、ほぼ同規模で再建されています。この白い外観は戦災で被害を受けたときに塗られたものとのこと。これでますます教会っぽくなっていましたが、現在の復元建築は当初デザインに則っています。(5.8.)

旧官営製鐵所修繕工場付属変電所【仮称】
八幡東区大字尾倉 大正6〜14年頃
煉瓦造/平屋建 不詳/製鐵所直営
/04.7/新日本製鐵/変電所(同左?)
 たかが変電所、されど変電所。八幡製鉄所が造るエネルギー関連設備は水道施設を中心にすばらしい意匠をもっているものが数多く紹介されているので、この施設もあるいは、と期待が高まります。今回の見学では内部を見ることが出来ず、今後の課題となっています。
 製鉄所の構内はこの他にも鉱滓煉瓦で作られた構造物が数多く残っています。調査次第では日本最大規模の産業文化財となりうるかもしれません。今後の調査が必要なところです。(八幡製鉄所80年史.41.)

旧製鐵所堂山成品岸壁(同左)
八幡東区東田五丁目 大正11年(1922)
石造岸壁 製鐵所直営/製鐵所直営
/05.3/新日本製鐵/静態保存(港湾施設)
 綺麗な布積みの石積岸壁。まあ、普通の人は対岸のクレーンや洞海湾を眺めるのが普通でしょうね。もともとは製鐵所最寄り岸壁のひとつとして頻繁に利用されていた製品積出用の岸壁でした。
 周辺は公園として綺麗に、上手く整備され、周囲は芝生の敷設はおろか、シーサイドスパなる温浴施設や結婚式場まで出来上がりました。ここがかつて日本産業の最前線であったことはもはやこの岸壁だけが語っているようで、何ともいたたまれない気持ちになりました。(b.41.)

新日本製鐵大谷会館(製鉄所大谷会館)
八幡東区大谷一丁目2−4 昭和2年(1927)
鉱滓煉瓦造/2階建 製鐵所直営/製鐵所直営
市建築文化賞/02.8/民間企業/余暇施設(同左)
 皿倉山へ続く緩い坂道の中腹、正面のオーダーと覆い尽くそうかという翼部が印象的な建物です。建設当初から製鉄所職員の余暇施設として用いられ、現在は結婚式場や宴会場として一般に開放されています(私の父の友人もここで結婚式の二次会を行ったそうです)。
 歴史的建造物として平成元年に北九州市の建築文化賞を受賞し、経産省の近代化産業遺産にも認定を受けています。所有が代わり、今後の運営が心配なところです。(5.8.13.)

新日本製鐵鉱滓線宮田山トンネル(同左)
八幡東区宮田町 昭和4年(1929)
鉱滓煉瓦造トンネル(石ポータル) 製鐵所直営/製鐵所直営
/04.3/新日本製鐵/トンネル(同左)
 ペディメントをそろえたギリシャ風のトンネル入口です。アーチの両端上部には日本製鐵(当時)のマークを揃え、その向こう側に何があるのかと気にかけさせるような印象を与えます。
 半世紀以上の時を経て、この突拍子もない意匠も今や町の一風景としてなじんでいるように見えます。すぐ横の道沿いを歩く高校生も、そのトンネルに敢えて注目することはありません。それ故に、失われるとその存在感があまりにも大きな、大事な文化財と言えるのではないか、と私は考えています。(5.12.)

新日本製鐵枝光橋(同左)
八幡東区枝光三丁目〜五丁目 昭和5年(1930)
タイドアーチ鉄橋 製鐵所直営/製鐵所直営
/04.12/新日本製鐵/ガス管橋梁(鉄道橋)
 現在は「くろがね線」と呼ばれる鉱滓線。そのルートは、開通時よりほとんど変わっていません。結果多くの区間で当時のデザインをかいま見ることができます。この橋梁もそれらの一例といえます。
 高品質の鉄鋼を運ぶ上では強度が不足したため、現在はガス管橋梁となっていますが、当然人を運ぶ上ではまだまだ現役のまま用いることができます。そう遠くない将来、観光兼用の地域鉄道として使われることを期待しつつ、今後の動向を注視したいと思います。(4.5.)

北九州市立大蔵小学校(八幡市立大蔵尋常小学校)
八幡東区勝山一丁目 昭和5〜6年(1930)
鉄筋コンクリート造/3階建 県営繕課か?/不詳
2010年5月頃解体/01.12/北九州市/小学校(同左)
単調な窓の連続単調な窓の連続で構成される翼部から見ると、特に古さを感じないようにも思いますが、ファサードにあるデザインで昭和初期の造りであると確認できます。
 全国的に小中学校の建築物には、一部を除きあまり美的配慮がなされないように見えますが、美的センスは小学校時代の経験から培われるものではないでしょ うか。近年の小学校デザインを考える際、重大な問題であると思います。近年あっさりと解体されてしまいました。日本の美的センスはどこに向かうのでしょうか。(大蔵小学校HP)

龍の尾橋(同左)
八幡東区西台良町 昭和6年(1931)
鉱滓煉瓦造単アーチ橋 八幡市+官営製鐵所/不詳
/08.6/北九州市/交通施設(同左)
 市内に残るアーチ橋の中ではかなり大型の部類になる構造物。場所自体は交通量もそう多くないことから、竣工当初の2車線を維持したまま現在まで遺されています。
 自然石を表面部に多用し、鉱滓煉瓦を使用していることなどから、製鐵所土木部の関与が類推できます。これについては、史料的裏付けも取れており、昭和初期の製鐵所によるデザイン現存例として、河内貯水池と共に注目すべき遺産といえます。(41.)

笹尾橋(同左)
八幡東区西台良町 昭和6年(1931)頃か
鉱滓煉瓦造単アーチ橋 八幡市+官営製鐵所/不詳
/08.6/北九州市/交通施設(同左)
 八幡東区の市道内で現在確認されている自然石を多用したアーチ橋の中では、小ぶりのもの。おまけに銘板自体もないため、残念ながら竣工年代については確実に昭和6年とは言えない状態ではありますが、隣接する龍の尾橋がしっかり記載している以上、こちらも同年竣工と考えるべきでしょう。ちなみに、道路の開通自体は当時の新聞報道により昭和6年であることが既に確定しています。
 八幡製鐵所沼田尚徳が八幡市の顧問を当時務めていることなどからこのようなデザインになったと考えられます。普段は気付かない設備ながら、大切に守り伝えたい施設と言えます。(41.)

製鐵所鬼ヶ原浄水場施設(同左)
八幡東区天神町 昭和初期か
鉄筋コンクリート造/2階建 沼田尚徳他/製鐵所直営
2016年3月解体/04.3/新日本製鐵/工業施設
 浄水場と考えると、普通は殺風景なイメージが先行しますが、この浄水場は緑で包まれた、素敵な憩いの空間でした。土木課長であった沼田尚徳氏の関与と見て良い施設です。
 その施設内にあって、一番装飾性に富んだ建物と言えるのがこの作品。無粋に金網で保護されてはいましたが、外壁は自然石、しかも窓や扉回りを色違いの石で装飾し、、、これだけは残しておいて欲しかったです。残念です。(41.)

波里写真館(同左)
八幡東区祝町二丁目13−10 昭和初期
木造/2階建 不詳/不詳
/09.5/民間/商業施設(同左)
 高見の製鐵所官舎とは、かつて川と細長い商店街、さらに路面電車を挟んで向かい側に位置する写真館。当時は製鐵所関係者の記念写真はこちら、ということになっていたのでしょうか。今では珍しいとんがり屋根がかなり印象的です。
 私事になりますが、小さな頃この近くに住んでいたため、写真館といえばこのようなとんがり屋根があるものと思いこんでいたことがありまして、今となると良い思い出です。(41.)

新日本製鐵鬼ヶ原浄水場ポンプ場(同左)
八幡東区天神町 昭和初期か
鉄筋コンクリート造/2階建 製鐵所直営/製鐵所直営
/04.3/新日本製鐵/用途不明(事務所?)
 浄水場施設群の中ではほぼ唯一外側から確認できる建物です。かつて製鉄業が持っていた権威性を十二分に感じさせる、城郭のようなお堅い造りをしています。この建物だけを外側から見ると、中はきっと殺風景なのだろうと想像していたのですが、、、私もまだまだ甘いですね。
 上記紹介した施設とのコンビネーションが非常に素晴らしい意味合いを成しています。しかし、この施設には普通立ち入る人がいなかったからか、あっさりと解体されてしまいました。(8.41.)

祇園原公園門柱(同左)
八幡東区祇園四丁目 昭和10年(1935)
鉄筋コンクリート門柱造 不詳/不詳
/06.2/北九州市/余暇施設(同左)
 元々は古くからある公園で、近年大幅に改修されました。しかし木々は新しい公園にしては妙に幹の幅を持ち、全体の構成も小さな公園にしては、貫禄があります。そして玄関にはこのような門柱。間違いありません、これは近代の都市計画公園なのです。
 元々が小さな公園であったこと、さらに改装の痕跡が著しいことなどから、写真としての見所は少ないですが、都市公園としての魅力は今も十分に備えています。こんな地区に住む人々がうらやましい、と思ってしまいます。(41.)

日本国有鉄道D51−244号蒸気機関車(同左)
八幡東区桃園三丁目 昭和14年(1939)
テンダ型機関車 不詳/鉄道省大宮工場
/05.3/北九州市/静態保存(機関車)
 北九州市立児童文化科学館の敷地近くには、「わんぱく広場」なる少々変わった広場があります。敷地内には、館のイメージを反映してなのか、なぜか工作用自動車やこのようなSLが保存展示されています。同様の手法はかつて小倉南区企救丘にあった市立交通科学館でも見られましたが、こちらの方がジャンルに幅があり、何というか、ぞんざいに扱われています。
 保存状態はペンキで塗り込められているせいか、それ程悪いようにも見られませんでしたが、ペンキで錆をごまかしている可能性もあり、決して油断は出来ません。(b.41.)

高見神社(同左)
八幡東区高見一丁目 昭和17年(1942)
木造/平屋建 角南隆/八幡製鐵直営
/05.3/民間/宗教施設(同左)
 暗い森の中、鬱蒼と茂る木々を切り開くかのように、神社空間が形作られています。裏山までの全てが神社の空間であり、宗教的静寂感にシャッターボタンを押す手がためらわれます。鳥居から拝殿に至る広い空間が、実に神社としての格式を高めます。
 神社の形式としては、角南隆氏の得意とする流造でまとめられており、安定性というか、ひたすらにどっしりとした重厚感に包まれています。出来てからそんなに歴史はない神社なのですが、風格だけは官弊大社クラスです。(4.41.)

旧東田第一高炉(旧製鐵所東田第一高炉)
八幡東区東田二丁目 昭和37年(1962)
鉄皮式高炉 新日本製鐵/新日本製鐵
市指定史跡/01.8/北九州市/静態保存(高炉)
  この近代化産業遺産総合リストは対象年代を江戸後期から昭和20年までとしていますが、本来ならばこの建造物は記載リストに当てはまりません。多くの書籍 でこれを明治34年次からのものとしていますが、もとの第一高炉は昭和27年完全に解体されており、今ある高炉は昭和37年に造られた高圧高炉なのです。
 とはいえ、ここにあった高炉が日本の近代化に貢献した功績は計り知れず、高炉を眺めながらここで鉄を作り続けた人々の姿を思い浮かべてみるのも良いかもしれません。(2.6.)


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