近代化産業遺産 総合リスト


 
建物紹介例
<写真がここに入ります。(下は例)>
現在の建物名称(昔の建物名称)
住所(移設の場合、旧所在地) 建築年代
構造/階層 設計者/施工者
文化財指定・顕彰(ある場合)/撮影日/所有状況/
使用状況(建造当時の用途)
建物説明。(文末に参考文献ナンバー)

北九州市八幡西区編

寿命水門(同左)
八幡西区楠橋西三丁目 文化元年(1804)
木造瓦葺 一田久作/福岡藩
市指定有形文化財/03./北九州市?/静態保存(水門)
 年代から考えると、「近代化遺産」と呼ぶには少々はばかりがあるようにも感じますが、近世の土木史跡として後の技術革新へと続く一連の流れの中にある遺構と位置づけ、敢えて掲載します。
 周辺一帯は戦後のスプロール化の流れによって住宅地となっていますが、水門前後の河川だけはノミあとも生々しく残り、江戸の雰囲気を遺しています。
 同様の史跡で中間市にも水門が残っており、こちらの方は県指定の文化財になっています。

堀川通り橋梁(同左)
八幡西区折尾五丁目 明治24年?(1890)
煉瓦造橋梁 不詳/不詳
/03.8/JR九州/鉄道橋(同左)
 鹿児島本線に架かる鉄道橋。旧大蔵線にかかる下駄歯構造の橋梁群と同時期のものと思われます。鹿児島本線で現在確認できる下駄歯橋梁はこれを含め3件のみです。線路拡幅が行われなかったため、現在もこの姿が確認できます。
 気づいた人はもいるでしょうか、かつて一覧のサンプル画像として使用したのがこの作品でした。あのときは掲載範囲をかなり狭くとらえていたのですが、、、ここ一年でかなり節操がなくなったといえるでしょうか(笑)。

天神通り橋梁(同左)
八幡西区堀川町 明治24年?(1890)
煉瓦造橋梁 不詳/不詳
/05.3/JR九州/鉄道橋(同左)
 鹿児島本線に架かる鉄道橋、、ですが、アーチ下部が道路となっているため、トンネルといった印象の方が強いものです。この狭さであるにもかかわらず、車が通ることが出来る設定のため、アーチの一部が削り取られています。
 北九州の中でも折尾地区は、煉瓦橋梁やトンネルが数多く遺っており、地域の印象を強いものとしています。再開発計画が持ち上げられていますが、この地域の特性をないがしろにするものでないことを強く祈願してやみません。

折尾女子学園・記念保存旧本館(旧折尾警察署)
八幡西区堀川町(旧所在地不明) 明治39年か? 昭和16年移設
木造瓦葺/2階建 不詳/不詳
/03./折尾女子学園/教育施設(警察署)
 曳家によって折尾の高台に移動され、学校施設として利用されました。車寄両側にある意図不明の板が気になりますが、多分デザイン上のものかと思います。1階部分は新体操部などの備品倉庫、2階はなんとダンスの練習場(ただし、子供ダンス)となっています。
 2回移動しているせいか、やたら補強が著しく、下見板の張り方も前面と背面では異なります。高校の奧にあり、なかなか見学する事は難しい建物ですが、最近は建物裏側の開発によってJR鹿児島本線の沿線から見る事が出来ます。(29.)

旧貝島礦業大辻炭礦変電所?(同左)
八幡西区香月西三丁目 明治末年?
煉瓦造/平屋建 不詳/不詳
2007年12月解体/03./民間/工業施設
 かろうじて窓枠と外部構造が残っているといった状態ですが、外郭の煉瓦自体はしっかりとしており、今後の活用が十分に考えられる建物だと確信します。トラスの部分にはギザギザ模様の飾りが見られますが、これは東洋製鋼小倉工場の倉庫にも見られるもので、建物の成立年代が近接しているのではないかと推測できます。
 この建物の用途ですが、変電所や選炭場という話があり、どうもはっきりしません。将来の活用のために詳しい調査が必要だと思われます。と、書いたところで既に解体されたとのこと。残念と言うほかありません。(41.)

西日本鉄道皇后崎変電所(同左)
八幡西区皇后崎町 大正3年(1914)
煉瓦造/平屋建? 不詳/不詳
/04.2/西日本鉄道/変電所(同左)
 大正3年に九州電気軌道が路線を延長する際、造られたものと推定できます。平成12年に同区間が廃止されたため、使用されなくなったと思いきや、どうも現在は筑豊電鉄用に電気を供給しているようでまだまだ現役の施設です。
 この状態から見ても装飾性はかなり高い作品だったのではないかと思うのですが、、、近年再び改装され、扁平に塗り固められてしまいました。無くなるよりは増し、といえるのですが、複雑です。(北九州市史.聞き取り.)

西日本鉄道折尾高架橋(同左)
八幡西区南鷹見町 大正3年(1914)
煉瓦造アーチ橋 不詳/不詳
/02./西日本鉄道?/(鉄道橋)
 もともとは九州電気軌道・北九州線の終点、折尾電停へ接続する3連アーチ橋として造られました。この1連だけはアーチ坑内の煉瓦が斜めに積まれる「ねじりまんぽ」という特殊な構造で出来ています。この通りは旧制中学へ続く生活道路として古くからあったようで、周辺には古い建物がまだ残っています。
 道路が斜めに橋梁を横切るために執られた措置ですが、このアーチにだけ「ねじりまんぽ」が造られたのは、手法を装飾としてとらえた、ある意味での住民への配慮といった目的があったのかもしれません。(6.12.)

JR折尾駅(九州鉄道・筑豊興業鉄道折尾駅)
八幡西区堀川町 大正5年(1916)
(1階煉瓦構造は明治23年?)
木造銅板葺/2階建 不詳/不詳
/02./JR九州/鉄道駅舎(同左)
 北九州市では門司港駅の次に古い駅舎で、日本初の立体交差駅として有名です。もともとあった筑豊興業鉄道の駅に別の場所にあった九州鉄道の駅が合流してできた駅のようです。古写真から見てみると、外装にかなりの改修が施された模様です。これが仇となったか、駅舎としては現存しておりません。
 石炭産業の盛んだった時代、筑豊興業鉄道の羽振りは良かったようで、1階の若松−直方方面の待合所にはその名残とも言うべき秀逸なデザインが今も残っています。 (5.8.12.)

末松商店(同左)
八幡西区田町二丁目 大正7年(1918)頃
鉱滓煉瓦造/2階建 不詳/不詳
/03.3/民間所有/事務所(同左?)
 JR鹿児島本線北側から見える屋根が気になって行ってみるとこの様な建物がありました。かつては北九州五大不詳建築と呼んでましたが、調べてみると実に由緒正しき八幡の小財閥、新日鐵の下請けから地域の産業を担い続け、現在はニビシ醤油という会社を遺す素晴らしい地域産業の足跡であることが分かりました。
 となりにはかつて末松邸という大きな屋敷があり、この施設はそのお屋敷に併設する形で存在した事務所建築でした。玄関周りや1階部分にアールデコ風の装飾がありますが、内部が最も美しい、北九州が誇る文化建築です。(41.)

折尾質屋倉庫(同左)
八幡西区東筑一丁目 大正期?
煉瓦造?/2階建 不詳/不詳
/05.3/民間所有/倉庫(同左)
 堀川沿いの倉庫建築で、元々は質屋の倉庫として作られたとの未確認情報があります。昔は何気なく眺めていたこの建物も、少し時間をおいて別の視点で見てみると、なかなか風情があります。小品ながら、鉄窓と桟の処理は赤煉瓦に見事に映えています。
 軒部分の作り方から勘案して、大正初期くらいの煉瓦造ではないかと想定していますが、これも確定ではありません。もう少し地域の建物を調べられる権限が欲しいと考えることが多々あるのですが、こればかりは自分ひとつでどうにかなるものでもないですし、何よりプライバシーの保護の問題もありますから、現実的ではないですね、、、、。(聞き取り.)。

ミツトモ醤油(同左)
八幡西区南鷹見町 大正期か?
木造/平屋建 不詳/不詳
2007年末頃解体/05.12/民間/醸造施設(同左)
 折尾の裏通りにあった、昔ながらの醸造所。ふつうこの程度の規模の醸造所の場合、むき出しの赤煉瓦煙突がそびえるところなのですが、こちらはわざわざモルタル塗装が施され、寿命が延びやすくなった結果近年まで凛とした姿を見ることが出来ました。
 北九州市内には各所に醤油の醸造所が今もなお稼働していますが、それらの中でも古くからの形式を遺していた数少ない遺産でした。駅前で繰り広げられている再開発事業に伴って取り壊され、現存していません。(41.)

旧貝島礦業大辻炭礦購買所(同左)
八幡西区香月西三丁目 大正期か?
木造/平屋建 不詳/不詳
/03.9/民間/商業施設(同左)
 さっと車で通りすぎるだけでは、ただの古い家屋にしか見えないかも知れません。しかし建物構成などを見ると戦前期からの系譜を持った建物であることがよく分かります。この建物は、元々炭鉱の購買所として建てられた施設で、つい最近まで購買所の系譜を継ぐ売店が営業していました。
 炭鉱の購買所が現在まで遺されている貴重な例。隣接する山神宮とともに市内の炭鉱の歴史を今に伝えています。建物の材質はそれほど良質ではないので、何とか保存できればよいのですけど、、、(41.)

新日鐵住金養福寺貯水池旧事務施設(同左)
八幡西区養福寺町 昭和2年(1927)
鉄筋コンクリート造 沼田尚徳他/八幡製鉄
/09.4/新日本製鐵/放置(事務施設)
 河内貯水池に共通する一連の自然石使用がこの建物にも見られます。内装が失われているため、旧状を想像することは難しいですが、事務施設として用いされたようです。周囲は木々がうっそうと茂り、本来ならば周囲に威厳を与えたであろう全体の姿を望むことは出来ません。
 現役の貯水池を見学することは難しいですが、この貯水池に限っては花見の時期に一般開放されています。小さいながらもなかなか見せる外観をしているので、興味のある方は花見のついでにご覧になってみてはいかがでしょうか。(c.)

新日鐵住金養福寺貯水池ポンプ室(同左)
八幡西区養福寺町 昭和2年(1927)
鉄筋コンクリート造 沼田尚徳他/八幡製鉄
/09.4/新日本製鐵/水道施設(同左)
 新日鐵住金八幡製鐵所内にある史料館などが所蔵する硝子乾板資料などから判断すると、当初は他の施設群と同様に自然石で表面を覆われていいた設備であったようなのですが、いつの頃からか、現存あるような姿に変わっています。建替物件とは考えにくいのですが、何とも勿体ないという気分になってしまいます。
 こちらの施設は敷地外からでも見ることが出来ます。それ故に、かつての優雅な姿を復元でも良いのでもう一度、と考えるのは私だけでしょうか。(c.)

新日鐵住金養福寺貯水池施設内橋梁(同左)
八幡西区養福寺町 昭和2年(1927)
鉱滓煉瓦造アーチ橋梁 沼田尚徳他/八幡製鉄
/09.4/新日本製鐵/交通施設(同左)
 養福寺貯水池の周縁散策路に架けられたアーチ橋。製鐵所が他の橋梁群で行っている手法と同じく、表面は自然石、内側のアーチ部分は鉱滓煉瓦で構成されており、やはり沼田尚徳の手による一連の橋梁群の流れに位置づけられます。
 他のどの橋と比較してもこの橋梁を見学できる機会は限られます。何せ、花見の頃にしかこの貯水池公開していないからです。私自身もしばらく伺っておりません。また行かねば、と思いながらなかなか時間を見つけられずにいる今日この頃です。(c.)

旧貝島礦業大辻炭礦ボタ山(同左)
八幡西区香月西三丁目 昭和初期〜昭和40年代
ボタ山 不詳/大辻炭礦
/03.9/不明/用途不明(ボタ山)
 香月地域と中間市との境に位置するボタ山。大部分が緑に被覆されているため、気づくまで時間が掛かるやも知れませんが、旧香月町の主力炭鉱であった大辻炭鉱のボタ山として作られたものです。
 北九州市に近い地域のボタ山は、あるものは高速道路建設に伴う盛り土などに使用され、またあるものは自衛隊の航空基地にとって支障になることなど種々の要因から、原形をとどめていないものが多く、こちらのようにちゃんと山の形をしているボタ山は貴重な存在と言えます。(41.)

敷島湯(同左)
八幡西区田町一丁目 昭和初期?
鉱滓煉瓦造/平屋建 不詳/不詳
/07.1/民間/住居?(商業建築)
 個人所有レベルでは北九州最大級の鉱滓煉瓦建築、といえるかもしれません。また、半地下構造のエントランスは目立たないところに研ぎ出しの装飾が施され、これは内部は相当のものではないか、と期待せずにはいられません。こんなに車は並んでいるのに、周囲に人の気配が無く、内部見学は出来ないまま、現在に至っています。
 黒崎北部区域では末松商店に次ぐ文化遺産ではないかと推察いたします。出来うる限りの保存活用策を地域内で考えていくべき資産、と思ったのですが、、、なんともはやです。(41.)

旧三好徳松銅像台座(同左)
八幡西区三ツ頭一丁目 昭和初期
鉄筋コンクリート造施設 不詳/不詳
/02.1/宗教法人/静態保存(記念施設)
 どこにでもあるような、ちょっと鄙びた寺の一角に、このような一見用途が分からない構造物があると気になって仕方ありません。卒業論文の時分、炭鉱跡地の遺跡を調べるために訳も分からないまま関連する場所を歩き続け、この構造物を見付けてはみたのですが、「三好徳松君像」と書いてあっても、像があるわけではなく、その当時の私は少々考えあぐねました。
 関係者の証言を得るうちに、どうやら元々この台座の上部にあった銅像が戦争時の金属供出で喪われたため、現在のような状況になっているらしいとのこと。昭和6年に三好徳松が逝去しており、その前後のものではないか、と考えることは出来ますが、経緯を記した銘板も銅製であったためそれも供出されてしまった現在、いつ作られたかすら分からない状態となっています。(41.)

旧貝島礦業大辻炭礦山神宮(同左)
八幡西区香月西三丁目 昭和10年(1935)
鉄筋コンクリート造鳥居他 不詳/不詳
/05.4/不明/(同左)
 まるで廃墟みたい、と言われかねない写真ですが、実際廃墟となっているから、もうどうしようもございません。かつては国鉄香月線の終点であった炭鉱町香月の栄光を記す施設のひとつです。
 購買所であった売店のすぐそばにこんもりとした森があり、そちらを何気なく探っていると参道が見えてきます。もちろん、整備されている道ではないので、歩きづらいこと、この上ありません。ぼちぼち歩いていると、最上部近辺に見えてくるのが、この鳥居です。境内に神社こそ遺っていませんが、手水鉢他いくつかの痕跡は留めています。後世に伝えるべき遺産のひとつです。(41.)

三菱化学染料工場(同左)
八幡西区大字藤田 昭和10年(1935)頃
煉瓦造丸窯 不詳/不詳
/04.12/三菱化学/工業設備(同左)
 『北九州の近代化遺産』を執筆する前、その前段階の報告書を作成する際、他の方から掲載したかった物件として紹介されたもので、私が外からでも見学できれば、と思い見学したときにはこのような状態でした。見てよく分かるかと思いますが、もう取り壊しのまっただ中であったというわけです。
 三菱化学の前身である日本タールの創業当初からの工場ではないかと言われていました。現在跡地には液晶パネルの製造工場が造られています。製造業の好景気が工場の解体を早めた仕方ない結果と言えますが、残念です。 

帆柱橋(同左)
八幡西区鳴水町 昭和11年(1936)
鉄筋コンクリート造単アーチ橋 不詳/不詳
/08.6/北九州市/交通施設(同左)
 昭和初期の失業対策事業として建設されたドライブロード「山手線」の全線開業に向けて建設された橋梁。現在も竣工当初の車線を保っているため、当初の橋梁が現在も使用されています。
 この道路の八幡東区部分には沼田尚徳の関与を思わせる自然石張りのアーチ橋が多くあるのですが、こちらの橋梁はコンクリートむき出しの武骨な印象を受けます。他の橋梁に比べ竣工が5年ほど遅れていることが影響しているかと思われますが、デザイン面の影響もあり、気に掛かるところです。

三菱化学黒崎事業所武道場・敬止館(九州専門学校武道場)
八幡西区黒崎城石 昭和19年(1944)
木造/平屋建 不詳/不詳
/04.7/三菱化学/余暇施設(教育施設)
 黒崎駅の北側はその殆どが工業地帯で、無機質なパイプやトタン壁の施設が建ち並び、工業都市特有の景観を呈していますが、その中で一種異様な施設として堂々たる姿を見せているのがこの建物です。かなりの年代物と思っていましたが、調べてみると戦時中の建物だということが分かりました。
 元々は高見の山中にあった施設を戦後移設、三菱化成(当時)が武道場として現在まで使用しています。三菱財閥の最後の当主であった岩崎小弥太もここを使用した事があるとのこと。改修工事が施され、その雄姿を今も見ることが出来ます。(41.)

旧貝島礦業大辻炭礦ホッパー跡(同左)
八幡西区香月西三丁目 昭和期?
鉄筋コンクリート造 不詳/不詳
2007年12月解体/03./民間/工業施設
 煉瓦造建物の近くにありますが、緑の中に埋もれており、また山の上に位置しているため、全体像が把握しづらい状況にあります。近づいてみてみるとホッパーとしての偉容を未だ留めており、筑豊炭田の中では数少ない遺構と言えます。
 筑豊地域では炭鉱閉山後他の地域では見られない程の急速な進度で遺構が無くなっていきました。それらの中でこの様に往時の姿を見せている遺構は珍しく、特に慎重に取り扱い、その活用方法について真剣に議論されるべきであると思いますが、壊されてしまうと、もうどうにもなりませんね、、。(41.)

川ひらた(同左)
八幡西区堀川町 昭和期?
木造貨物船 不詳/不詳
県指定有形文化財/03.5/福岡県/静態保存(貨物船)
 現役の川ひらたとして使用されたもの、といわれている作品のひとつ。川ひらたとは、水深の浅い川用に作られた運搬船のことで、ここ九州・遠賀川流域では、石炭の運搬に多く用いられ、明治中期の最盛期、川は川ひらたで溢れていたそうです。
 川ひらたによる石炭輸送は、鉄道網の整備とともに姿を消し、往時使用されていた舟は、これを含めてもたった2艘しかありません。この舟は現在、県立折尾高校の中庭に展示され、地域の歴史を今に伝えています。

黒崎播磨研究施設(同左)
八幡西区東浜町 昭和期か?
木造/2階建 不詳/不詳
/05.9/黒崎播磨/工業施設(同左)
 工場内にある木造建築。古くから地元にある工場施設ですので、広々とした構内にはまだ木造施設も数多く遺されています。
 この建物の特徴としては、内部に持ち送りをつけて二階部分に重い機材をおいても大丈夫なように補強しているところにあり、なるほど元々研究施設であったのだろうと考えさせる造りとなっていました。こちらの施設も現役の工場施設ですので、非公開の物件ですが、工場内の産業景観を作り出す重要な要素となっています。竣工期は判断尽きづらいですが、戦前期の可能性も高いと考えられます。(41.)

安川電機本社(同左)
八幡西区黒崎城石 昭和29年(1954)
鉄筋コンクリート造/3階建 アントニン・レーモンド/大林組
市都市景観賞/01.3/安川電機/工場施設
 北九州市西部の人間にはおなじみの東証一部上場企業・安川電機の本社事務所。当時一流の建築家に頼み、水平ルーパーを多用した窓周りなどいくつかの工夫を施した革新的な建物ではありますが、黒崎バイパスの建築に伴い解体の危機に瀕しました。
 かろうじて一部を削り現状をとどめており、何とか遺そうとしたその努力を評価され、市の都市景観賞を受賞したのですが、やはり老朽化の名の下に解体残念というほかありません。(41.)

九州厚生年金病院(同左)
八幡西区岸の浦二丁目 昭和30年(1955)
鉄筋コンクリート造/5階建 山田守/戸田組
/02.6/財団法人/医療機関
 黒崎近辺に住んでいる人間にとって見れば、ものすごくなじみのある建物で、建築を学ぶまでは建物の貴重さを理解し難かった施設でした。
 すっきりとした美しさというものは、現代を生きる私たちにとってあまりにも見慣れているため、その質感やデザインの優位性を理解しづらく、それが故に保存運動までに行き着かない、まして病院建築は何かとマイナスイメージがあるものですから、案の定今は更地の公園となっています。いずれはこの建物があったことすら忘れられているのでしょうか。(5.)

八幡バプテスト教会(同左)
八幡西区岡田町 昭和30年(1955)
木造/平屋建 W.M.ヴォーリズ/不詳
/02.10/宗教法人/宗教施設(同左)
 戦後建築の中でも昭和30年代までは素材を重視した質感のある建物が多くありました。こちらもその中のひとつです。様式建築からは既に脱却しすっきりとしたデザインでありながらも、ヴォーリズらしいと言いますか、木材を多用した親しみの持てる造りとなっています。
 ひとつ気になる点があるとするならば、現在周辺で大規模な再開発事業が持ち上がっていることでしょうか。こちらの建物敷地は再開発の区画には引っかかってはおりませんが、この貴重な都市の財産をむざむざ壊すような動きだけはあって欲しくないものです。(41.)

黒崎播磨丸窯(同左)
八幡西区東浜町 昭和戦後期
煉瓦造丸窯 不詳/不詳
/05.9/黒崎播磨/工業設備(同左)
 現在もかろうじて使用されている近代から続く遺産。こちらは工場構内にあり、現役の設備であるため、一般の方は見ることが出来ません。しかし近代に使用されていた耐火煉瓦製法を現在に伝える貴重な設備と言うことで敢えてこちらにも掲載させていただきました。詳しくは企業の歴史とともに『北九州の近代化遺産』に掲載しておりますので、併せてご確認ください(宣伝)。
 出来れば、一度見る機会がありましたら、見ておくことをお薦めいたします。これこそ、北九州が伝える工場と熱の歴史です。(41.)

黒崎商業建築【仮称】(同左)
八幡西区藤田四丁目 昭和戦後期
木造/2階建 不詳/不詳
/05.9/民間/工業設備(同左)
 知り合い何人かに伺ってみたものの、建物の用途と名称がはっきりしなかった、残念な遺産。モルタル細工の具合がなかなか細やかで、現役で使用されていた時は華やかな建物だったと思います。
 商店街のちょうど中間点から終点に掛かる位置にあり、車道と鈍角に交差している敷地に建てられています。その不定型な敷地効果を生かした間口の広い造りは商売にもってこいの、いやいやコミュニティスペースにも十分な施設だと思います。所有者の方、活用しませんかねぇ。(41.)

三菱化学染料設備モニュメント(オートクレーブ)
八幡西区大字藤田 昭和30年代
直火式高圧反応機 不詳/神戸製鋼所
/05.9/黒崎播磨/工業設備(同左)
 染料工場で使用されていた機械、と言う説明版がありましたが、残念ながら私にはどのように使用されていたのか、皆目見当がつきません。大きな歯車+弁で囲われていますから、結構な圧力の掛かった仕組みなのかな、とか、攪拌が必要な作業かな、などと想像は出来るのですが、、、、いやはや、勉強不足で申し訳ない限りです。
 三菱化学は黒崎に工場を造る際、元々染料の製造を目的としてプラント施設を作っていた関係から、数ある工場内機械群の中からこの機会を展示するまでに至ったと考えられます。なかなか勇壮な造りですが、残念ながら一般見学が難しいところが残念と言うほかありません。(41.)


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