どこにでもあるような、ちょっと鄙びた寺の一角に、このような一見用途が分からない構造物があると気になって仕方ありません。卒業論文の時分、炭鉱跡地の遺跡を調べるために訳も分からないまま関連する場所を歩き続け、この構造物を見付けてはみたのですが、「三好徳松君像」と書いてあっても、像があるわけではなく、その当時の私は少々考えあぐねました。
関係者の証言を得るうちに、どうやら元々この台座の上部にあった銅像が戦争時の金属供出で喪われたため、現在のような状況になっているらしいとのこと。昭和6年に三好徳松が逝去しており、その前後のものではないか、と考えることは出来ますが、経緯を記した銘板も銅製であったためそれも供出されてしまった現在、いつ作られたかすら分からない状態となっています。(41.) |