「日本炭礦の歴史と遺跡について」 (12−7発表レジュメ)

九州大学人間環境学府都市共生デザイン専攻 萩島研究室修士一年
産業考古学会会員  市原猛志




  はじめに −筑豊炭田と水巻−
1.三好炭鉱・日本炭礦の歴史
 ・炭鉱の成立と三好徳松
 ・鮎川義介と日本炭礦
 ・エネルギー革命と日炭の終焉
2.日本炭礦の遺した産業遺産
 ・三好以前の産業遺産
 ・日本炭礦の産業遺産
3.産業遺産の保護について
 ・筑豊に残る産業遺産
 ・日本炭礦の産業遺産を考える……オープンミュージアムの提案



  はじめに −筑豊炭田と水巻−
 筑豊炭田と呼ばれる地域は、福岡県旧遠賀・鞍手・嘉穂・田川の四郡によって構成され、日本鉱業史の中でも古くから石炭が採掘されていた地域である。石炭産業の消滅によって筑豊地域は大きな産業転換を迫られ、そのために地域は低迷を続けた(表1)。日本炭礦の所在したここ水巻町においても同様のことである(表2)。この発表では炭鉱が遺した遺産の産業考古学的な価値について考えてみる。


1.三好炭鉱・日本炭礦の歴史

 ・炭鉱の成立と三好徳松
 同炭鉱は明治十六年に開坑した頃末炭鉱を発祥としている。明治三十七年に三好徳松が鉱業権を受け継ぐと、積極的な炭鉱の機械化を進め同坑を筑豊有数の炭鉱へと成長させていった。徳松の死後、炭鉱は昭和九年に鮎川義介が運営する日本産業に売却された。

 ・鮎川義介と日本炭礦
 日本水産や日産自動車の創始者である鮎川義介は筑豊の有力炭鉱主である貝島の援助を受け、炭鉱業に乗り出した。化学原料の石炭事業化や二島坑の採炭に取り組んだ。出炭量は昭和二十六年には百三万トンに達した(図1)。

 ・エネルギー革命と日炭の終焉
 昭和三十年代、エネルギー革命により急激に石炭に対する需要が低下していった。日本炭礦は地上権と採掘権の問題や炭質低下、さらに続く経営難に抗えず昭和四十六年閉山を申請した。

2.日本炭礦の遺した産業遺産
 周辺域区の開発が筑豊の他地域より早く進んだため、現在日本炭礦が残した炭鉱設備を探すことはきわめて困難になった。同地域の産業遺産について紹介する(図2を同時参照)。
 ・三好以前の産業遺産 (表3・4)
 ・日本炭礦の産業遺産 (表5)

3.産業遺産の保護について
 ・筑豊に残る産業遺産
 筑豊炭田各地に残存していた炭鉱跡地は閉山直後は放置されていたが、多くは工業団地として転用されるなど、徐々に再開発の対象となっていった。石炭記念館の開設が相次ぐにつれ、移動可能な設備については記念館に引き取られるようになった。現在は様々な保護運動によって文化財指定がなされているものもある。(表6)
 ・日本炭礦の産業遺産を考える……オープンミュージアムの提案
 「エコ・ミューゼ」という考え方→地域の文化から切り離すことなく、その遺物を見るにふさわしい本来の場所で保存・展示し、博物館から離れた場所にある遺物に関してもサテライト施設として空間の共有を行おうとするもの。
 志免炭鉱ボタ山に関する論文では、ボタ山という産業遺産の価値を後成的価値から注目し、地域に散在する資源(自然・文化財)を、公園緑地系統でネットワーク化することを提唱している。
 地域の活性化を図ると同時に地域アイデンティティの維持のため、現在残っている事務所・ボタ山・堀川利水施設などの産業遺産を保存・整備し、歴史資料館と連携することによって、町全体をオープンミュージアムとすることを提唱する。

参考資料
市原猛志 「筑豊炭田の産業考古学的研究−三好鉱業・日本炭礦遠賀礦業所を例とした炭坑遺産の現状とその活用について−」2002


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